フランスはラスコー洞窟に始まる長い歴史をもつ。鉄器時代、現在のフランスに相当するガリアには、ガリア人およびケルト人が居住していた。紀元前51年、ガリア人はローマ帝国により西暦486年まで制圧された。ローマ帝国はガリアを数百年間支配し、最終的には中世のフランス王国を建国したゲルマンのフランク人の襲撃および移住にガロ・ローマ人は直面した。1337年から1453年までの百年戦争での勝利は国体を強固にし、絶対君主制の礎となった。ルネサンス期、フランスは世界的規模の植民地帝国の第1段階を確立した。16世紀のうち40年近くの間はユグノー戦争に明け暮れていた。
フランス人権宣言
ルイ14世はブルボン朝の最盛期を築いたが、君主制は18世紀末のフランス革命で崩壊した。人間と市民の権利の宣言は、今日に至るまで国の理想を表現している。世界に先駆けて共和国を樹立したが、ナポレオン・ボナパルトが帝国を建国した。1804年にハイチを失いナポレオンは窮した。世界で初めて認めたユダヤ人の市民権を1808年5月に制限してから、外資が対仏大同盟の軍事費へ流れた。ナポレオンの降伏後は絶対君主制が復活。1830年に立憲君主制となり、オスマン帝国からフランス領アルジェリアを奪った。一時的な第二共和政を経て、第二帝政が順に続いた。19世紀中ごろはパリ改造が行われたりレオン・フーコーが地球の自転を証明したりして、フランスは生活と科学の両面で近代化をとげた。普仏戦争で成立した第三共和政は1940年まで存続する。パリ・コミューンを鎮圧後、アドルフ・ティエールが40億フラン超の国債を発行して、フランス銀行とJ・S・モルガン・アンド・カンパニーから復興資金を調達した。19世紀および20世紀初頭、世界第2位の植民地帝国を有した[1]。オスマン帝国に対する債権国として、19世紀末からはオスマン債務管理局の運営に参加した。
第一次世界大戦において、フランスは三国協商の参加国としてドイツ帝国などの中央同盟国と戦った。第二次世界大戦では連合国に属したが、1940年にナチス・ドイツにより占領された。1944年の解放後、第四共和政が設立された。翌年フランス国立行政学院が設立され、出身者が財務監査官、国務院(内閣法制局兼最高行政裁判所)、会計検査院などで活躍するようになった。財務監査官出身者らが支配する官僚制は、民衆からエナ帝国と呼ばれた[2]。アルジェリア戦争を経てシャルル・ド・ゴールが第五共和政を樹立した。1950年代には原子力産業へ積極的に進出した。技術は軍事利用もされている。原子力部門における主要な会社には、パリバ系のINDATOMや、ロスチャイルド・パリ連合銀行[3]系のCOFINATOME[4]、パリ連合銀行・アルストム・シュナイダーエレクトリック・トムソン=ヒューストン(現・ゼネラル・エレクトリック)ほか多数合弁のFramatome(現・アレヴァ)などがある[5][6]。1960年代にアフリカの植民地を次々に独立させながら、北アフリカ諸国からCFAフラン圏にわたって金融・エネルギー面での利権を守った(新植民地主義)。1960年代から1970年代にかけてフランスへ外資の波が押し寄せた(詳細)。オイルショック以降、フランスの政治はコアビタシオンでねじれるようになり、ドゴールのときのようにふたたびソ連と西ドイツを相手として頻繁に交渉した。
フランソワ・ミッテラン大統領が指導するフランスは、1980 - 81年に大企業群を国有化し、補償金を捻出するときに国家債務を増加させた。1982-83年のフランス版金融ビッグバンでは、国債その他特定種類の証券市場に特化した証券化が行われた。国家債務のGDPに対する割合は、1980年20%であったものが1990年35%になった。[7]
フランスは欧州連合の歴史的創立国の一つであり[8]、特に隣国ドイツとの経済的・社会的統合を推進している。金融政策は欧州中央銀行で決定する。ジャック・シラク大統領のとき、パリクラブではユーロ債のリスケジュールが盛んに行われた。ナポレオンの時代から使用されていたフランス・フランは、1999年のヨーロッパ通貨統合にフランスが参加したため、2002年始めには完全にユーロへ切り替わった。イラク戦争でフランスは、ドイツ・ロシアと戦争に反対する立場をとった(2月の共同宣言)。1990年代から債務を累積させていた年金制度が2003年に改革された。2005年、国民投票で欧州憲法が批准を否決された。年金制度改革は2010年夏にも実施された。公債の2/3を保有する機関投資家の、国家財政に対する信頼を回復する意図が指摘されている[9]。
国名
エッフェル塔はパリ、およびフランスのシンボルで、1889年にパリで行われた第4回万国博覧会のために建造された。
正式名称はフランス語で、République française(レピュブリク・フランセーズ)。通称、France(フランス)。略称、FR。
日本語の表記は、フランス共和国。通称、フランス。また、漢字による当て字で、仏蘭西(旧字体:佛蘭西)、法蘭西(中国語表記由来)などと表記することもあり、仏(佛)と略されることが多い。英語表記はFrance、国民・形容詞はFrench。
国名の France は、11世紀の『ローランの歌』においてまではさかのぼって存在が資料的に確認できるが、そこで意味されている France はフランク王国のことである。一方で987年に始まるフランス王国[10] に、France という名前が用いられているが、これは後代がそのように名づけているのであって、その時代に France という国名の存在を認定できるわけではない。また中世のフランス王は REX FRANCUS と署名している。France は中世ヨーロッパに存在したフランク王国に由来すると言われる。その証左に、歴代フランス王の代数もフランク王国の王から数えている(ルイ1世とルイ16世を参照)。作家の佐藤賢一は、ヴェルダン条約でフランク王国が西フランク、中フランク、東フランクに3分割され、中フランクは消滅し、東フランクは神聖ローマ皇帝を称したため、フランク王を名乗るものは西フランク王のみとなり、フランクだけで西フランクを指すようになった、と説明している[11]。ドイツ語では、直訳すればフランク王国となる Frankreich(フランクライヒ)を未だにフランスの呼称として用いている。これと区別するために、ドイツ語でフランク王国は Frankenreich(フランケンライヒ)と呼んでいる。多くの言語ではこのフランク王国由来の呼称を用いている。
歴史
フランスの歴史は現代世界史の幹である。ブルボン朝最盛期のフランスはヨーロッパ最大の人口を有し、ヨーロッパの政治・経済・文化に絶大な影響力を持った。フランス語は外交の舞台での共通語となった。現在は国連事務局作業言語である。フランスは17世紀以降1960年代まで、大英帝国に次ぐ広大な海外植民地帝国を有した。1919年から1939年、フランスの面積は最大となり(12,347,000km2)、世界の陸地の8.6%を占めた。
ローマ帝国の支配
現在のフランスに相当する地域は、紀元前1世紀まではマッシリア(現・マルセイユ)などの地中海沿岸のギリシャ人の植民都市を除くと、ケルト人が住む土地であり、古代ローマ人はこの地をガリア(ゴール)と呼んでいた。ゴールに住むケルト人はドルイドを軸に自然を信仰する独自の文化体系を持っていたが、政治的には統一されていなかった。
紀元前219年に始まった第二次ポエニ戦争では、カルタゴ帝国の将軍ハンニバルが南フランスを抜けてローマ共和国の本拠地だったイタリア半島へ侵攻したが、ゴールには大きな影響を及ぼさなかった。
『ユリウス・カエサルの足元に武器を放るヴェルサンジェトリクス』
その後、カルタゴを滅ぼしたローマは西地中海最大の勢力となり、各地がローマの支配下に置かれた。ゴールも例外ではなく、紀元前121年には南方のガリア・ナルボネンシスが属州とされた。紀元前1世紀に入ると、ローマの将軍・カエサルは紀元前58年にゴール北部に侵攻した(ガリア戦争)。ゴールの諸部族をまとめたヴェルサンジェトリクスは果敢に抵抗したが、ローマ軍はガリア軍を破ってゴールを占領し、ローマの属州とした。ゴールはいくつかの属州に分割された。そしてラティフンディウムが作られた。
ローマの平和の下でケルト人のラテン化が進み、ガロ・ローマ文化が成立した。
360年にゴール北部の都市・ルテティアはパリと改名された。
5世紀になるとゲルマン系諸集団が東方から侵入し、ガリアを占領して諸王国を建国した。
フランク王国の再編
聖レミギウスから洗礼を受けるクローヴィス
476年に西ローマ帝国が滅びると、ゲルマン人の一部族であるフランク族のクローヴィスが建国したメロヴィング朝フランク王国が勢力を伸ばし始めた。508年にメロヴィング朝はパリに遷都し、メロヴィング朝の下でフランク族はキリスト教とラテン文化を受け入れた。メロヴィング朝のあとはピピン3世がカロリング朝を打ち立て、カール・マルテルは732年にイベリア半島から進出してきたイスラーム勢力のウマイヤ朝をトゥール・ポワティエ間の戦いで破り[12]、イスラーム勢力の西ヨーロッパ方面への拡大を頓挫させた。
シャルルマーニュ(カール大帝)はイスラーム勢力やアヴァール族を相手に遠征を重ね、現在のフランスのみならず、イベリア半島北部からイタリア半島北部・パンノニア平原(現在のハンガリー周辺)までを勢力範囲とし、ほぼヨーロッパを統一した。シャルルマーニュのもとでヨーロッパは平静を取り戻し、カロリング・ルネサンスが興った。800年にシャルルマーニュは西ローマ帝国皇帝の称号をローマ教皇から与えられた。シャルルマーニュの没後、フランク王国は3つに分裂した(西フランク王国・中フランク王国・東フランク王国)。リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの見解によると、これらはそれぞれ現在のフランス・イタリア・ドイツの基礎となった。また、この時期に古フランス語の形成が始まった。
909年、クリュニー修道院が創建された。のちにモーゲージ関係史料を多数残した。933年、アルル王国が成立した。西フランク王国はロテール3世のときに群雄割拠し、987年にパリを神聖ローマ帝国に攻められるほど不安定であった。 987年、西フランク王国が断絶し、パリ伯ユーグ・カペーがフランス王に選出されてフランス王国が成立した。カペー家に始まるカペー朝、そしてヴァロワ朝とブルボン朝は、戦争と家領相続を通じて次第に国を統一していった。カペー朝の場合、ロベール2世がブルゴーニュを攻め、アンリ1世が二度も国際結婚した。ルイ7世は一回多かったが、最初の妻・アリエノール・ダキテーヌはヨーロッパの祖母と呼ばれている。フィリップ2世は三度目の結婚でバイエルン貴族と姻戚関係となった。
1209年にアルビジョア十字軍が開始され、異端とされたオクシタニア(現・南フランス)のカタリ派を殲滅した。その結果、カタリ派とともに独立性の強かった南フランスの諸侯も滅ぼされた[13]。南仏オック語圏は、のちにスペイン交易で栄えユグノーを台頭させる。1223年に即位したルイ8世は、西フランク王家だったカロリング家の血を引くとされ、第一次バロン戦争へ介入してマグナ・カルタ制定のきっかけをつくった。ルイ9世は第2次バロン戦争で諸侯を調停している。フィリップ4世は1284年からナバラ王国で王となり、翌年フランスでも即位して新たな財源を次々と獲得した(フランドル支配・アナーニ事件・アヴィニョン捕囚・テンプル騎士団解散・三部会)。黒死病の大流行が起こる直前の1337年から、フランスはイングランドとの百年戦争(1337年 - 1453年)を戦っている[14]。